どうということもない覚え書き。

日々の徒然。主に読んだ本とか。

ということで史跡巡り。

行ってきた史跡を行った順番に書いてみます。
五稜郭は一日目でしたが、他はほぼ二日目です。

箱館戦争五稜郭に関連した展示を見学。
今年の特別展は「幕臣達の明治維新箱館戦争始末記」でした。
図説が発行されていないのは残念でしたが、常設展の図説を購入。
館内には伊庭八郎関連の遺物も展示されていました。それがよりによって迷子札だったりしたもので、ワタクシと母親の間には「伊庭八郎=迷子札の人」という誤った認識がインプットされたのでした^^;
ちょうど兵糧庫*1の夏季公開中だったので、内部が見学できたのもラッキーでした。
博物館前では赤熊や陣羽織を装着して記念撮影ができます。
旧幕府軍側の仮装はないのか、という突っ込みはなくもないですが。

1階の売店では様々なオリジナルグッズが購入できます。
まあ、五稜郭というよりは新選組祭りみたいな感じでしたが。
中でも土方歳三いか徳利(「歳ちゃん徳利」)には母親と二人で大爆笑。
現在隣には新タワーが建設中で、来年の春にオープンするのだそうです。
…いかねばな(握り拳)。

  • 碧血碑

市電の谷地頭*2から20分ほど歩いた(というか登った)所にある、旧幕府軍戦没者慰霊碑。
どのガイドブックにも掲載されているのに、観光客が全然見当たらなくてびっくり。
おかげ様で、一人でしみじみと清廉な雰囲気をかみ締めましたが。
すぐ側には柳川熊吉翁之寿の碑*3があります。
ただ、ここに行くには遊歩道(半ば山道)を登っていかないといけないので、雪の季節にはまず到達不能なのではないかと。
でも、建造された当時は箱館の海を一望できる眺望のよい場所だったのではないでしょうか。
今も、登っていく途中で一望できる場所がありますしね。

  • ハーバー遭難記念碑

碧血碑から函館八幡宮前に戻り、そこから(碧血碑とは反対方向の)青柳町方面に歩いた先。
市立函館博物館側(函館公園内)に建てられています。
明治7年、攘夷思想を持った元秋田藩士に斬殺されたハーバー氏の記念碑。というか慰霊碑?
元々外人墓地に立てられていたのを、現場であったここに移転したのだとか。

函館公園から更にロープウェイ登山口方面に向かって歩くと、護国神社境内の裏手に出ます。
先ほどの碧血碑は旧幕府軍戦没者慰霊で建造されましたが、ここは新政府軍戦没者慰霊のために建造されています(なので、裏手には戦没者のお墓がある)。
箱館戦争だけではなく、以降のほかの戦争(WWW2とか)の戦没者の慰霊碑もあります。
もっとも、神社自体は縁結びの看板がでかでかと建てられていましたが。

  • 咬菜園跡

弥生坂(市電末広町下車)をひたすら登りつめた、道幅もかなり狭くなった所にそれはあります。
1969年3月、箱館政府幹部が最後の酒宴を開いた場所で、現在は個人所有の庭園となっています。
小説だと、箱館総攻撃(5月11日)の直前っぽく描写されていますが、実際にはそれよりもかなり早い時期だったんですね(考えてみれば当たり前か)。

  • 己巳役海軍戦死碑

「きしのえきかいぐんせんしひ」と読みます^^;
咬菜園跡から更に坂を登って(この時点で道幅は更に狭くなっている)、住宅街の中を行った先。函館の海が見下ろせる場所に建てられていました。
箱館戦争で戦死した新政府軍の海軍関係者の慰霊碑です。
すぐ側には箱館府兵隊戦没者の慰霊碑と、薩摩藩士の墓石があります。
ただ、敷地内は全然整備されていなくて草ぼうぼうだったのがなんともはや…。
(ここに限らず、案内板はきっちり整備されていたので、迷子にはならずにすみましたが)

土方歳三を始めとする新選組戦死者の供養碑があります。
ここにはファンノートが置かれていて、自由にコメントが書けるようになっています。
ワタクシは書きませんでしたが。
他にも高田屋嘉兵衛一族のお墓や函館大空襲の犠牲者慰霊碑があります。

  • 実行寺

称名寺の割とご近所。
箱館病院の別院があった場所(当時は寺自体別の場所にあった)で、箱館総攻撃時、新政府軍の兵士がここを攻撃し無抵抗の傷病者を斬殺したという。
そのほとんどが会津遊撃隊の兵士だったため、旧会津藩有志が後に「傷心惨目の碑」を建立。
現在も寺に入って右手に建てられています。

  • 弁天台場跡

市電函館どつくの停留所から程近い公園内に説明板が建てられている。
旧幕府軍(主に新選組)が篭城していた台場で、五稜郭組より少し早い5月15日に降伏。
台場自体は現存しないため、案内板がなければここに台場があったなんて誰もわからないんじゃなかろうか。
ちなみに、函館どっく㈱の裏手にも「弁天台場跡」という案内柱があります。

  • 中島三郎助父子最期の地碑

市電五稜郭公園前から五稜郭とは反対方向に15分ほど歩いた場所、函館税務署側にあります。
長崎海軍伝習所1期生だった*4彼は箱館奉行並を務めていました。
降伏を拒否し千代ヶ丘陣屋に篭った彼は二人の息子ともども壮絶な戦死を遂げました。
その千代ヶ丘陣屋がこの辺りにあったということで、この周辺には中島三郎助にちなみ「中島町」という地名がついています。
(「陣屋通り」という名前の通りもあります)

函館駅から徒歩10分、総合福祉センター前に建てられています。
土方歳三がどこで亡くなったかについては諸説ありますが、有力な説のひとつに「一本木関門の辺りで腹部に銃弾を受けて死亡」というものがあります。
その一本木関門*5がこの辺りにあったからということで、ここに建てられているようです。
背後には一本木関門を模した門が建てられています。
ここは近所の方が毎日整備してくださっているようで、来たときも花の水を変えておられました。


三日目も不意打ちで史跡に遭遇したのではありますが、それはまた次回に。

*1:箱館戦争時から現存する唯一の建造物。

*2:「やちがしら」と読みます

*3:放置されていた旧幕府軍兵士の遺体を葬った侠客。碧血碑建設後も終生ここを守り続けた。

*4:ペリー来航時、最初に応対した日本人でもある。

*5:元々、予算に困った箱館政府が通行料を取るために作った門なのだそうで…^^;